私たちが何気なく見ている日本地図。最近はGoogleマップなども進化し、どんどん便利になってきましたね。
気軽に見れるようになった地図ですが、皆さんは4月19日の「地図の日」をご存知でしょうか? 別名「最初の一歩の日」とも呼ばれ、日本の歴史を大きく変えた日です。
そこで今回は「地図の日」について詳しく解説をしていきます。
どうしてこの日になったの?
なぜ4月19日が「地図の日(最初の一歩の日)」と呼ばれているのか。由来は1800年の4月19日、日本で初めて地図を作った伊能忠敬が測量をするために、北海道(蝦夷地)に向けて出発した日を記念して制定されました。
日本地図を完成させるために最初の一歩を踏み出した日でもあることから「最初の一歩の日」とも呼ばれています。
伊能忠敬と日本地図の歴史
日本地図は昔からありましたが、江戸時代初期まではかなり不正確なものでした。青森並みに小さい北海道、四国が大きく反り返り瀬戸内海が消滅しているなど、目も当てられないほど。当時は飛行機や衛星なんてものはないですから、憶測などで地図が作られていたようです。
一方、伊能忠敬は1745年に上総国山辺郡小関村の名主「小関五郎左衛門家」に生まれました。1762年には伊能三郎右衛門家の婿養子となり、有名な地主として名を馳せます。
その後、50歳近くになると長男に地主を引き継ぎ、単身江戸へ。江戸へ出た理由は天文・暦学の勉強のためで、忠敬が弟子入りしたのは当時30歳の高橋至時でした。そこで勉強する中で、「地球の大きさが知りたい」「それなら正確な日本地図を作成する必要だ」と思い立つのです。
伊能忠敬は54歳(1800年)になると測量をするために北海道(蝦夷地)へ向かいます。メンバーは息子と弟子2人、召使い2人、測量器具を運ぶ人3人、馬2頭です。
また測量には人の歩幅を活用していました。皆が一定の歩幅(70cm)に歩けるように訓練し、測量時は複数人の歩いた平均値から距離を計測。より正確な計測を目指しました。
1801年には東日本の測量を開始。この時は歩幅で測定せずに、180cmごとに印をつけた縄で距離を測定しました。測定方法は楽になりましたが、東北の海岸線は複雑でかなり難航したようです。
その後、東海から北陸、中国地方と測量を続けました。その期間は1815年にまで及び、伊能忠敬が江戸に戻った時の年齢は70歳でした。そして彼が歩いた距離は約4万kmと言われています。
寿命50年と言われた時代に、55歳から日本地図を作り始めた伊能忠敬。もはや尊敬するしかありません。
伊能忠敬は年齢を感じさせないチャレンジおじさん
歴史を辿るだけでもすごい人と分かりますが、ひとつひとつ紐解いていくと伊能忠敬がどれだけチャレンジャーな人物なのか思い知らされました。
そこで伊能忠敬の恐るべき能力について解説をします。
50歳で隠居し趣味の道へ
伊能忠敬は50歳で長男に家業を引き継ぎ、江戸へ天文・暦学を学びに行きます。普通の地主ならゆっくりと余生を過ごしますが、彼の好奇心は抑えられなかったようです。
現代でも定年を迎えてから大学へ通う人がいますが、本当に尊敬します。私が大学生の時も80歳で勉強するおばあちゃんがいました。いくつになっても勉強をする姿はかっこいいですね。
地球の直径が知りたいから「ついでに日本地図作っちゃお」
伊能忠敬は日本の発展のために地図を作ったのではなく、「地球の直径が知りたいから、ついでに日本地図も作る」という動機で測量を始めたのです。もう好奇心と行動力の塊のような人ですね。
また測量をするには幕府の許可が必要でしたが、「海外からの敵が来た時に、日本の正確な地図があった方が有利ですよね?」と上手いことを言い、すんなり許可をもらっています。本当に探究心が桁違いのおじさんだったんですね。
54歳から17年かけて4万km歩く鉄人
当時は寿命50年時代だったため、54歳から測量をするのは無謀な挑戦でした。現代で言うと80歳くらいのおじいちゃんが測量の旅に出て、100歳くらいで帰ってくるイメージでしょうか?
しかし伊能忠敬は、年齢を感じさせない足腰で、54歳から17年かけて日本全国を歩いたのです。当時は1日40km歩いており、普通に元気な若者でも悲鳴を上げそうなスケジュールです。まさに超人と言っても過言ではありません。
まず寿命を迎える老人が「日本地図作るか〜」と、考えること自体がぶっ飛んでますよね。
年齢は言い訳にならない
何かに挑戦する時に「もう歳だから」「もう遅い」という人がいますが、伊能忠敬の話を聞くと、年齢で言い訳はできなくなりますね。
私も何かに挑戦する時は「できない理由」ではなく「できる理由」を考えていきたいものです。