「8月16日」と聞いて、みなさんどんなことをイメージされますか?
「夏休み!」とか、「夏真っ盛り!」とか夏をイメージする人が多いでしょうか。
またお盆休みと近いため、「お盆」のイメージが強い人もいるんじゃないかと思います。事実、8月16日は京都の「五山の送り火」や長崎の「精霊流し」など送り火をする日としても有名です。
そんな8月16日ですが、実は「女子大生の日」だと知っていますか?
このページでは「8月16日」と「女子大生の日」、その由来や女子大生にまつわるいろいろなお話について、紹介していきます。
どうして8月16日が「女子大生の日」に?由来をご紹介
「女子大生の日」と聞くと、今どきの女子大生を想像して、何か華やかな感じがしますよね?
今どきの女子大生って、サークル活動などで「人生を謳歌してる!」という印象が強いこともあるでしょう。
ただ、「8月16日」が「女子大生の日」となった由来をたどると、そこにはちゃんとした歴史があるんです。
1913(大正2)年のこの日、東北帝国大学(東北大学)が女子受験生3人の合格を発表しました。これが日本で初めての女子大生の誕生でした。
引用元:『366日の旅』より
1913(大正2)年の8月16日、東北帝国大学に日本で初めての女子大生が誕生しました。この日を記念して「女子大生の日」と名付けられました。
現在では多くの女子大生がいますが、当時はまだ男性でも大学へ進むこと自体が珍しい時代です。
そんななかで誕生した初の女子大生。もちろん新聞でも取り上げられ、世間の注目を集めました。
いったい日本初の女子大生ってどんな女性だったんでしょう?次の項で詳しく紹介しますね!
日本最初の女子大生は誰だったの?
世間の注目を集めた日本初の女子大生は、黒田チカさん、牧田らくさん、丹下ウメさんの3名でした。
黒田チカさんと牧田らくさんは、東京女子師範学校の出身でした。「師範学校」とは教員を養成する学校で、当時は大学とは別の教育機関としてあったんです。
丹下ウメさんは、当時まだ旧制専門学校だった日本女子大学校の出身です。
「師範学校」も「旧制専門学校」も、それぞれ現在の大学の前身となるほどなので、相応に頭が良くなくちゃ入れない学校です。
3人ともそこの出身なので、いわゆる「才女」といわれる人たちだったんですね!
なかでも黒田チカさんは入学してからも目覚ましい活躍をして、最終的には理学博士までとってしまいます。
日本初の女子大生となり、女性が研究しながら生きていく道すじをつけてくれた黒田チカさん。次の項では、そんな黒田チカさんの生い立ちについて紹介します。
理学博士となった黒田チカさんについて
黒田チカさんは、日本が西洋文化を取り入れ始めたばかりの明治時代に生を受けます。
黒田チカは1884年(明治17年)、マリー・キュリーにおくれること17年に九州佐賀に生まれた。日本の最初の女性化学者であり、また日本の帝国大学に初めて入学した初の女性理学士3名中の1人である。
黒田チカさんは日本初の女子大生というだけでなく、日本初の女性化学者でもあったんです。
黒田チカさんに大きく影響を与えたのが黒田チカさんのお父さんでした。
明治という時代からすでに「これからの女子には学問が必要」という進歩的な父親のもと、17歳で佐賀師範学校を卒業し、その後、当時の女子の最高学府だった東京女子師範学校へと進学します。
さらに東北帝国大学で有機化学を学び、植物の色素を研究。海外への留学も経験しながら、理学博士も取得します。
晩年は創設されたばかりだったお茶の水女子大学の教授となり、後進の指導にも尽力しました。
進歩的なお父さんの支えもあって、化学者としての道をまっとうした黒田チカさん。その生涯は、女性が研究者として生きていくモデルとなり、今の「リケジョ」のパイオニアとなる人生でした。
今、女子大生は減ってる?増えてる?
ここまで「女子大生の日」の由来となった事柄、そして人々について紹介してきましたが、現在の「女子大生」はどんな状況にあるんでしょうか?
女子大生の数と、男子大学生の割合を調査したグラフを見てみると、女子大生はその人数と割合ともに増加しているようです。
引用元:大和総研グループ「大学、大学院における男女別学生数の状況」より
女子大学をまとめた論文によると、文学・教養・家政系学部が中心であった女子大学の学部にも、法学部や理学部などの設置も増え、多様化していっています。
黒田チカさんなどの多くの女性の活躍によって、現在は女性であってもいろんな選択肢のなかから、自分の将来の道が選べるようになっているのはうれしいですよね!
多くの女性が自分らしい生き方を選択できる社会へと、これからも進んでいってほしいものです。