プリカジュール(透胎:とうたい)という技法をご存じでしょうか? 地金のないところに釉薬を乗せるという極めて高度な技術を要するもので、技術力の高さに加え、手間のかかる作業であることから、七宝の世界でも敬遠されがち。ただその技法を用いた作品は群を抜いて美しく、繊細そのものといえます。
東京都荒川区にその技法を得意とする工房があります。それが畠山七宝製作所です。
今回は製作所の代表で、東京七宝伝統工芸士である畠山弘さんに、次世代の伝統の担い手としてお話を伺ってきました。
「七宝の仕事がしたい」シンプルなその思いが後継への道につながる
畠山七宝製作所の創業は昭和26年。現在は2代目の畠山さんが社の代表として営業を行う傍ら、伝統工芸士として商品の製作にあたっています。
後継者として入ることに抵抗はなかったのでしょうか。
畠山さんにとっては七宝焼の工房を継承するというのはごく自然なこと。子供のころから父親である初代の背中を見て育ち、幼少期から工房の手伝いなどを行っていたことから、当然自分はこの仕事を継ぐものだと考えていました。
東京七宝は別名メタル七宝と言われます。地金に均一に釉薬を乗せ、窯に入れて焼き上げるのです。
当時、製作所は企業の徽章(きしょう)作りが中心で、どちらかといえばオリジナリティや芸術性を問われることはありませんでした。後継者を志したのは高校進学を考える15歳の時。釉薬を盛り込み、焼きあがって製品になるというその過程が面白かったから。当時は工業高校か高専などに行き、卒業後すぐにでも工房に入るつもりでいたほどです。
ところがこれを思いとどまらせたのが製作所の創始者である父親でした。若くして実務に携わることを希望する息子に、普通高校、大学への進学をあえて提案したのです。それはある意味、社会性や社会の状況に対する敏感なセンスを持たせるためだったのかもしれません。
父と進路についてじっくりと話しあった結果、普通高校を経て大学の商学部に進学します。なぜ商学部だったのか。将来的に東京七宝を輸出したいという思いがあったからだといいます。
4年間の大学生活を、「人脈つくり、コネクション作りの場」と形容する畠山さんは、その言葉にたがわず60歳を超えた今でも、大学時代の交友関係を大切にしています。当時培った人間関係を駆使して営業することもあるのだとか。
取り巻く環境の変化に合わせ業態を変化。下請けからの脱却
大学卒業後、職人としてあゆみはじめる畠山さんでしたが、彼が35歳の時、父親が急逝します。ほどなくしてバブルも崩壊。特に営業しなくてもモノが売れていた時代が一変、モノが全般的に売れなくなる時代に突入します。
会社の徽章やバッジなどに主軸を置いていたこれまでの経営スタイルではそのうち立ち行かなくなる。そう考えた畠山さんは、業態の思い切った転換を試みます。
これまでの在り方から経営スタイルを変更し、自社製品の直販で会社を引っ張る決意をしたのです。
他企業のバッジや徽章などを製作する受け身の営業から、七宝焼の良さを全面に押し出した自社製品の売り込みへの転換。先細りの受け身の業態から徐々に脱却し、今や自社製品が8割を占めるようになりました。
プリカジュールはその代表格と言えます。地金のない部分に硝子の膜を張るその作業は、釉薬が落ちない程度に盛り込み、焼成します。一度では薄い膜が張るだけなので、釉薬を盛っては焼成という作業を何度も繰り返さなければなりません。
さらに焼き終えた後に待っているのが仕上げの磨き仕事。これが最も難しく、力の加減によっては色を盛った部分が壊れたり、はがれ落ちたりする上、磨きが甘ければあの金属と硝子がお混然一体となった透明感ある美しさが引き立たないのです。
手磨きだと時間がかかり、工賃も高くついてしまうこの作業を機械で磨き上げる腕を持つのが畠山さん。このプリカジュールの成功が製作所の命運を分けたといってもいいでしょう。
プリカジュールの「花紋」は、七宝では初のグッドデザイン賞を獲得し、その後製作所を支える主力製品となります。
さらにプリカジュールを駆使した七宝ジュエリーが次々にグッドデザイン賞を獲得します。ジュエリーデザイナーに指輪のデザインを施してもらったのち、色乗せと焼成、磨きはすべて自社で行った「東京カボッション」と銘打たれた指輪は、曲面を見事に磨き上げた逸品です。
プリカジュールの成功は、これまで海外の有名ブランドのジュエリーの一つとしてしか存在しなかった七宝焼が、東京七宝として認知された瞬間でした。この唯一無二の技術力が製作所を下請け業から脱出させたと言っても過言ではないかもしれません。
とにかく何でもやってみる。アイデアと高い技術力を駆使して唯一無二の商品を作り出す
製作所を支えるのは技術力のほかに、東京七宝の良さをひきたてるアイデアです。
プリカジュールの成功を機に、製作所はよりいっそう自社製品の開発にも力を入れるようになります。
次に手掛けたのが妖怪やもののけに焦点を当てた「妖怪七宝」の提案です。ピンバッジや帯留め、かんざしなど、価格帯としてはプリカジュールシリーズよりも低く設定してあるので気軽に購入でき、購買層を広げるのにうってつけの商品でもあります。なによりも、東京七宝の特徴を端的に表しているものと言えるでしょう。
地域振興を進めていた東京都の意向にも沿ったこの商品は企画として大きな成功を納め、同所の主力製品に成長しました。2019年には化け猫のイラストで脚光を浴びる新進のイラストレーター石黒亜矢子氏とコラボレートし、ピンバッジを展開しています。
主力製品が自社製品に変わったことにより、その技術力が内外から認められるようになりました。下請け単価からも脱却することができ、その結果、職人の意識にも変革の兆しが。
技術力を上げれば単価が上がる。それを体現するようになったのです。
次世代に伝統をつなぐために。後継者の育成とモノの売り方を考える日々
畠山さんの目下の目標は、何といっても次世代にどのように伝統をつないでいくかにあります。荒川区の助成を受け、若い世代の職人を育てるプロジェクトに参加、それを活用して畠山さんのもとで職人の卵が技術の研鑽(けんさん)に日々いそしんでいます。
同製作所の3代目は長女が担うことを決意したとのこと。それも後を継いでほしいと畠山さんが頼んだというわけではなく、図書館司書として働いていた本人からの申し入れだったと言います。蛙の子は蛙、やはり父親の背中を追う形で入門したようです。
後継者として2年、職人としてジュエリーデザインを行う傍ら、出展先での営業などもこなす忙しさ。
取材のこの日はあいにく営業で外に出ていてお会いすることはかないませんでした。
それまでこの仕事に積極的に関わってこなかったものの、女性目線でのジュエリーデザインが施された商品が、喫緊の展示会でお披露目されます。
後継者である彼女もまた、父親である畠山さん同様、七宝とは直接関係のない大学に進学しました。自分の子供が後継となる場合、どうしても甘さが出ると言われますが、その点はどうなのかを尋ねると、畠山さんは静かにこう言います。
「確かにそれは否めないかもしれませんね。でもそれを環境や時代が許さないでしょう。そんなこと許したら、たちまちつぶれてしまうでしょうし。私たちが職人として研鑽してきた時代とはまったく質が違います。私たちは少なくとも何も言わずともモノが売れる時代を過ごしてきた。それを彼女の担う時代は、モノが売れにくい時代。私たちが体験できなかった苦労があろうかと思います。」
確かに東京七宝を取り巻く環境は厳しいものとなっています。七宝に代わる手軽で廉価な素材である樹脂の存在もあれば、圧倒的な人件費の安さを誇る海外製品、だからこそ技術力で勝負をかけるほかないのも事実。
その売りにくさをどのように突破するのか。それが若き後継者に渡された課題なのかもしれません。
「あいにく私はSNSとかまったくわかりません。その点彼女たちはそれを生活の一部として取り込んでいる。SNSを駆使して、英語力も発揮して新たな販路を開拓するかもしれません。」
日本の伝統工芸士に注目するのは国内よりも海外の人たちであったりする側面もあります。気軽に世界発信できるインスタグラムやツイッターは同製作所の販路開拓にはうってつけと言えるでしょう。近く、同製作所の会社案内にSNSの情報が追記されるかもしれません。
取材を終えて
取材の間、畠山さんのもとにはひきもきらさず電話がかかってきました。それは畠山さんが東京七宝の工芸士であり、協会の理事でもあり、フットワーク良く動いてくれる若手であるから。
とても60代には見えないほど畠山さんは若々しい雰囲気をお持ちでしたが、60歳定年を敷いているビジネスの世界では引退を決意する年代。その年代の畠山さんに動いてもらわないといけないほど、東京七宝では高齢化が進んでいます。
高齢化の結果、後継がいないために廃業の道筋をとらざるを得ない工房が2軒あり、協会の維持も難しくなってきているのが実情です。事実、2016年に東京七宝工業組合は解体し、新団体の設立に移行しています。
後継者不在のために消えていこうとしている伝統工芸。作り手の技術と努力が報われるシステム作りが急務と言えます。
工房情報
畠山七宝製作所
所在地:〒116-0003 東京都荒川区南千住 5-43-4
Tel. 03-3801-4844 Fax.03-3801-5296